慣れていない時に見えたこと

 私は学生時代、個別指導塾のアルバイトをしていました。

 始めたばかりでまだ仕事に慣れていなかった頃、同じアルバイトの先輩の言動で、深く印象に残ったことがありました。どこかに書き留めていたわけでもないのに、今でもはっきりと覚えているくらい、私には違和感のあるものだったんだと思います。

 その先輩は、何年も講師として働いているベテランのアルバイトで、授業の質はとても高く、より良い授業のためには努力も時間も惜しまないような人でした。もちろん、生徒や社員からの信頼は厚く、その人なしでは塾が成り立たないくらいの貢献をしていたと思います。

 その人は、通常の授業以外にも、入試特訓など受験生に関わる責任の重い仕事も任されていました。私も個別指導で中3生に関わる機会はありましたが、個別指導でさえ、自分の受け持つ生徒の大切な将来を担っているという重圧感がすごかったので、集団授業として行われる入試特訓で、多くの生徒たちに教えるという、社員でさえ責任が重いであろう仕事を引き受けているその人の力量には脱帽していました。

 高校入試の合格発表の日、社員は受験生からあらかじめ聞いていた受験番号をもとに、各高校のホームページで、受験生一人一人の合否を確かめていきます。そして数日後に結果をまとめた資料が講師の控室に貼り出されるので、アルバイトの講師はすぐに結果を知ることはできません。しかし、そのベテランアルバイトの人は、責任感が強く、少しでも早く生徒の合否を把握しないと落ち着かないということで、社員の一人に、合格発表当日に、生徒全員の合否の結果を自分にメールするようにと頼んでいたらしいのです。

 頼まれた社員も発表当日はてんやわんやだったのでしょう、ベテランアルバイトに結果を報告することができなかったようでした。

 翌日に出勤したベテランアルバイトは、報告を忘れた社員を呼び出し、説教をしていました。嫌でも内容は聞こえてきて、合格発表の日に何をしていたか、一日のスケジュールをすべて話させた後、「じゃあこの時間に俺に報告できたんじゃないの?」と詰問し、社員に謝罪させていました。確かにあれだけの貢献をしたのに、合否の報告を忘れられてしまったら、やるせなくて、何か言いたくなるだろうとは思います。それでも。そうであっても、入ったばかりの私は、『アルバイトの立場で、社員に説教してる…。社員の多忙っぷりを見た上でそんなこと言ってるのかな…。自分の立場、ちゃんとわきまえてるのかな』と思ってしまいました。

 授業で生徒と関わる時には、社員もアルバイトも立場は同じであると思います。しかし、アルバイトは生徒と接するだけで、その日の仕事は終わりですが、社員はバイトが帰った後ももちろん、日々の雑務や責任のある仕事に追われ、特に入試の時期には多忙を極め、家に帰るのが明け方になることも少なくないといいます。やはり、どんなにバイトが頑張ったところで、社員との責任や仕事量の多さの違いは歴然だと思うのです。

 間違いを批判するのは大切なことですが、相手の失敗の背景を慮ることや、立場をわきまえた上での発言が、必要なのではないかと思わずにはいられませんでした。

 その説教を聞いているだけで悶々とした気持ちになりましたが、さらに、最後に言った一言に衝撃を受けました。

 「まあ、俺の受け持った生徒は全員受かったからいいんだけどさ」

 と言ったんです。私は思わず、受験を終えた中3生が教室にいないか、周りを確認してしまいました。考えなくてもわかることですが、裏を返せば、「俺が受け持たなかった生徒は受かってなくてもいい」ということになります。教室でよくそんな言葉が吐けるなと唖然としましたが、その人は、口からこぼれ出るように、ごく自然に、会話の一部としてそれを言ったように見えました。

 

落ちた子の前で、同じことが言えるのか。

自分が受け持たなかった子の前で、同じことが言えるのか。

 

 受験生と他の誰よりも近くで接し、一人一人の努力を痛いほどにわかって、合格を願っていたのならば、そんな言葉は選択肢にも上らないのではないでしょうか。その人が、生徒のことを想って仕事しているのか、自分のプライドを誇示するために仕事しているのか、わからなくなった出来事でした。

 その後、機会があってそのベテランアルバイトと話したとき、不合格で、塾に挨拶に来ることなく退塾した生徒のことを、「〇〇と直接会って励ましてやりたかった」と言っているのを聞いて、なんだか泣きたい気分になりました(笑)合格発表の時、自分の受け持った生徒の合否、いや、自分の授業の成果で、合格率100%を叩き出してやったということしか頭になかった講師に、励まして「やる」と同情された生徒には、あいさつに来なくて正解だったよ、これからたくさん良いことがありますように、と願わずにはいられませんでした。

 その頃の私は、入って間もないこともあり、自分の力量の無さや、生徒に伝える難しさを思い知り、もっと上手くできないかと、歯がゆい思いをする毎日でした。もっと努力して、生徒が頼りたいときにいつでも力になれるようにしたい、と必死だったので、早く慣れたい、慣れて、できることを増やしたいといつも考えていました。慣れるほどに、生徒との関係も深まり、色々なことに気づけるようになるだろうと。でも、その会話を聞いて初めて、「慣れていいことと、だめなことがあるんだ。慣れても、あんなこと平気で言えるようには絶対になりたくない」と強く思ったことを今でも覚えています。慣れていないからこの違和感に気づけたのだとしたら、この感覚は忘れたくないな、とも思いました。

 その塾でのアルバイトは4年ほど続けましたが、慣れた今思うことは、慣れ不慣れではなく、感覚の違いなんだろう、ということです。

 そのベテランアルバイトには、授業のやり方など参考にしたいことがあれば事あるごとに相談に乗ってもらいましたが、あの時に抱えた違和感は、消えることなく、その人の心ない言葉を聞くたびに増していき、そういうことが何度あっても、その配慮の無さに慣れることはありませんでした。

 最近で一番印象に残っているのは、高3生の話を聞かされた時のことです。志望校に手が届かないかもしれず、精神的に追い詰められて、堰を切ったように泣き始めたその子を、自分が慰めて「あげた」という内容でした。自分は、授業の質だけでなく、生徒の精神的な支えにもなっていて、心から信頼を寄せられているという、「頼りにされてるエピソード」のうちの一話にしか聞こえず、本当に心配しているのだろうか?とただただ疑問でした。 

 まあ、私が生徒だったら、担当した講師には、自分が泣いてしまったことも、成績が思わしくなくて、志望校に手が届かないかもしれないことも、室長以外の他の講師にはベラベラと話してほしくないだろうな、ということだけは思いました。

 生徒のために一生懸命なのか、自己顕示欲のために一生懸命なのか。

 動機は何であれ、生徒のためになっているのは間違いなく、他のどの講師より生徒に届くであろう授業をしているのは明らかだと思います。それは、彼の計り知れない努力の上に成り立っているのだろうとも思います。だからなおさら、その道徳心の無さというか、自分はこんなに頑張ってますっていうのを表に出さないでほしいと思ってしまいます。そこに気づけたら、もう完璧なのに。

 私は大学生だったので、生徒と年も近く、相談事を打ち明けてもらいやすい立場だったのか、たくさんの生徒から色々な話を聞きました。その中でも、その講師に関する相談は多かった気がします。「授業はすごくわかりやすいのに、プライベートのこととかまで、『おれを頼っていいんだよ』って言わんばかりにズケズケ聞いてくるからやりづらい」とか、「授業は受けたいけど、それ以外のことが嫌すぎて、究極に悩んでる。こんなことで悩まないで、授業に集中できたらいいのに」とか。

 生徒の悩み事増やしてますよ、こんなに苦しめていいんですか、って、いつも言いたくてしかたありませんでした。一応室長には相談しましたが、さすがに、授業どうこうではなく、人間性を改善するように指摘するのは難しいのだと思いますが、ベテランに変化は見られませんでした。生徒が嫌がっているのにも気づけず、逆に精神的支柱になっていると思い込んでいるのだから、もう素でそういう人間性なんだと思います。

 つまらないプライドに生徒を巻き込んで、でも、そのつまらないプライドが無ければ、質の高い授業は存在しないのかもしれない、と考えると、本当に、究極に難しい問題であるように感じました。

 大人になったら、人としても、何でも大人になるものだと思っていました。

 でも、頭が良い悪いに関係なく、大人か子どもかの関係もなく、人の気持ちが推し量れない人は一定数存在していて、それは容姿と同じように、生まれつきのもので、ずっと変わらないのかもしれないと考えさせられました。

 そういう人と上手く付き合っていくことは必要だけど、教える立場である以上、もう少し、自分のことを差し置いて、本気で生徒のことを考えられるようになってほしいと、今でも思っています。